2016/03/21

文明開化とキリスト教



明治から昭和初期にかけて指導的な役割を果たした人の中に内村鑑三や新渡戸稲造のようにキリスト教徒になった人々がいた理由が何だったのか気になっていた。彼らが師事したお雇い外国人の感化によるものであったことは自明であるが、さらにその奥の理由が気になっていた。実は、筆者も中学高校時代にメノナイト教会に来ていたベトナム兵役逃れのアメリカの青年が教える英語教室に通っていた。英語の新約聖書を読むことと簡単な英会話のレッスンからなっていたが、数年通っていた。その教会の牧師に一度、キリスト教に興味がないかと聞かれたことも覚えている。そのときはっきり「ノー」と言ったということ以外は記憶があいまいだが、宗教には興味がないというようなことも言ったかもしれない。今振り返ると、うちは仏教と神道で間に合っていると感じていたようにも思うが、新約聖書のキリストに関する御伽噺を読んでキリスト教徒になる人がいると期待するのは、古事記や日本書紀の物語りを読んで神道に改宗する人がいるかもしれないと期待するようなものである。だから、なぜ内村鑑三や新渡戸稲造がキリスト教徒になったのか、その理由が気になっていた。

開港期日本におけるキリスト教の宣教師活動の状況』(クネヒト・ペトロ著、杉本良男編『キリスト教と文明化の人類学的研究』国立民族学博物館調査報告6211‒312006))は、アメリカから来たプロテスタントの宣教師たちについて、グリフィスという宣教師を例にとって説明している。「グリフィスは,経済,技術,医療,政治などを含む西洋文明の進歩はその文明の霊性的価値観,つまりキリスト教の神信仰と切っても切れない関係を持っている複合体であると考えた。そして、この優れた文明を、アメリカ程は恵まれていない世界の国々へ持って行き広めるのは、アメリカの使命であり、アメリカ人宣教師の伝道活動の重要な意味であると信じていた。」のだそうである。つまり、いわゆるお雇外国人(ほとんどは教育に従事した)として日本に来たアメリカ人のほとんどは宣教師もそうでない者も西洋文明(キリスト教と不可分と考えられていた)で世界を染めることに情熱を持っていたから、彼らは教師としての影響力を使って、西洋文明や科学技術を学ぶことに熱心だった日本の若者たちに、西洋文明の真髄を習得するにはキリスト教の信者になる必要があると説得した結果、多くの若者がプロテスタント系のキリスト教徒になるという現象が起きたということのようだ。札幌農学校(後の北大)で内村鑑三や新渡戸稲造らが感化を受けたクラーク博士も例外ではなかった。そのような影響力を持つお雇外国人がいた地域ごとに、横浜バンド,札幌バンド、熊本バンドなどと呼ばれ、教会内で活発に活躍していた青年たちのグループの拠点があった。

上記のクネヒト・ペトロによると、お雇外国人によるこのようなキリスト教の宣教活動を日本政府は歓迎したわけでも黙認したわけでもなかったが(なぜ、第三期生に「信ずる者」は出なかったのか?参照)、英語と西洋文化を習得し、彼らと対等に渡り合えるようになることを目指していたエリート層に対して一定の影響力があったことは否めない。ハル松方ライシャワーのSamurai and Silk を読むとそのことが良くわかる。アメリカからのお雇外国人と日本のエリート層のこのような関係はその後の日米関係をも暗示している。

ヨーロッパから来たお雇い外国人に比べて、日本に来たアメリカ人のほとんどは日本文化や伝統に対する尊敬どころか、好奇心さえ持たなかった。お雇アメリカ人にとって日本は宣教師や教育者としての人生を充足させることのできるマーケットであるという認識から出ることはなかったと見ていい。京都大学で神学を教え、「黄禍」に対抗して「極東における白禍」(白人がもたらす禍:The White Peril In the Far East)を1918年に書いた日本びいきのシドニー・グーリック(Sydny Gulick)でさえ、日本文化はキリスト教に比べて倫理的に劣ると考えていたとしか思えない議論を展開している。そのような蔑視は戦後の占領政策を策定したアメリカ人にも引き継がれている(マッカーサーも日本のキリスト教化にこだわっていたことが知られている)。明治期にはそれを受けて立った日本のエリートや知識人たちには、和魂洋才という考えはあったが、それで欧米人を説得できるわけもなかった欧米人と同じ土俵に立たせてもらうために、キリスト教という彼らの価値観を取り入れて見せることを選んだのが内村鑑三や新渡戸稲造らだったのだと思う

上記のシドニー・グーリックは、開国当時に高かったキリスト教に対する興味が数十年ですっかり下火になってしまったことについて、多くの日本人が欧米に出かけていって現地でキリスト教が既にその力を失っていたことやキリスト教社会の腐敗を知り、キリスト教に対して批判的な評価を広めたせいだが、文化水準の高い日本人は徐々にキリスト教の良さを理解し、取り入れるようになるだろうと考えていたようだ。

ネット検索をしてみると、内村鑑三や新渡戸稲造にとってキリスト教とは何だったのかという問いに答えようとした人が少なくないことがわかる。その一つ『内村鑑三の「武士道に接木されたキリスト教」に関する間文化的哲学における一考察』(深谷潤、2014年)を読んでみた。そこから浮かび上がってくる答えは、武家出身の彼らが、精神的な支柱としていた武士道と、アメリカから来た「先生」たちが「文明人」の精神的な支柱として提示したキリスト教との折り合いをどうつけるかの模索であったということである。彼らが、武士道普遍化することによってではなく、キリスト教徒になることによって両者の折り合いをつけようとしたのは、西洋文明の圧倒的な力に屈した/魅せられたからであり、それが手っ取り早い方法だったからであろう。当時の欧米の物質的な富の蓄積と科学技術を見れば、日本の後進性は明らかであり、文明社会の一員として受け入れてもらうには、少なくとも精神面で彼らと価値を共有していることを示す必要があると感じられたのであろう。1919年に国際連盟で人種差別撤廃条項を採択させようとして奔走した新渡戸稲造が1900年(改訂版1906年)にわざわざ英語で『武士道』を書いて出版し、排日に傾いていったアメリカで日本理解へ向けた講演の旅を繰り返した理由もこれで納得できる。

ちなみに、『武士道』は武士道の教えをキリスト教や古今東西の賢人の類似の教えを引き合いに出して説明するという形で書かれている。この本はかなり高尚な英語で書かれていて(アメリカ人でクエーカー教徒だった新渡戸夫人とその友人が手伝った)一般の人は辞書なしでは読めない本になってしまったことは残念であるが、セオドー・ルーズベルト大統領の目に泊まり、大統領は周りの友人知人にも本を送って読ませたと言われている。セオドー・ルーズベルト大統領は日本の武道に関心を持ち、軍隊の教練に柔道を取り入れたことでも知られている。しかも、日露戦争の翌年、1906年には日本を仮想敵国にしてオレンジ計画なるものを開始していたから、『武士道』に描かれていた日本の武人の鍛錬と覚悟を知って、これはヤバイと思ったのかもしれない。

ウィキペディアによると内村鑑三新渡戸稲造もアメリカでキリスト教に失望するという経験をしているが、キリスト教を捨てることはしていない。内村鑑三は「日本の武士道に基づく新たなキリスト教」を目指し、新渡戸稲造はクエーカーという教派に改宗している(クエーカーは早くから奴隷解放運動を行ってきたことで有名である)。新渡戸稲造は1933年に、内村鑑三は1930年に亡くなっているが、敗戦まで生きて、対日経済封鎖、日米戦争、日本空爆、原爆投下、日本占領政策、軍事裁判とう名のリンチという日本征服に向けた一連のアメリカの政策を見たら、キリスト教文明にさらに失望したに違いない。
 
黒船-開港-キリスト教解禁が西洋諸国による日本侵略の第波(第一波は宣教師ザビエルに始まり島原の乱と鎖国とキリスト教禁止で終わった)だったとすれば、経済封鎖戦争-占領-自虐史観による洗脳(War Guilt Information Program)は第波でできなかったこと達成を至上命令とした白人陣営が仕掛けてきた日本侵略の第波であった。最近は聞かなくなったが、戦後は長い間、日本的なものにはすべて「封建的」というレッテルが貼られて否定されてきたが、戦後のアメリカ化の中でキリスト教が無視されてきたのは、幸か不幸か、欧米化を推進した知識階級の間では宗教を否定する共産主義が影響力を持っていたからであろうか

幸いにも、多くの日本人は敗戦にも占領にも洗脳にもめげず、追いつけ追い越せで戦後の日本を復興した。1970年代後半には追いつけ追い越せの達成が視野に入自信を取り戻した日本人は、日本の文化や伝統見直ようにもなった。しかし、長期のデフレでまた自信を失ったのだろうか未だに自前の憲法も自衛能力もな、主要メディアや政党、政府機関教育機関など、公職追放で打撃を受けた組織が反日スパイ巣窟になってい洗脳の呪縛から抜け出たというには程遠いのを見るに付け、気がもめる



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